この度、板倉穣水先生のご指導のもと教師免許をいただき、ありがとうございます。技量はまだまだ及ばないところではございますが、この先も穣水先生がご指導下さることでのお許しと存じております。
その後、穣水先生も一緒に秋田にご指導に来られるようになって、「せっかくお父さんがきてるんだから夕歌も習いなさい。」と言われ、手ほどきを受けるようになりました。「調弦器は便利だけど、自分の耳のためには調弦は調子笛でやりなさい。」「口琵琶は大事。弾法は全部口琵琶で覚えなさい。」と、両先生からよく言われたものです。またある演奏会で『羅生門』を聴いた時、詞章は同じなのに、何となく姉や穣水先生の歌と違うと思い尋ねると、「それはね、うちの歌はは基本ふたこと残しなのよ。『花見車の出衣、霞も匂ふむらさ~きや、薄紅の花ぐ~もり、やがて催す春さ~めの』こんなふうに抑揚の後に二文字残すのよ。今日演奏した方は『むらさき~や、花ぐも~り』と一文字だったでしょ。」なるほど、少しのことでも違った雰囲気に聞こえるものなのですね。
姉が体調を崩して秋田に来られなくなってからは、北条葉水さんと2人で一月おきに横浜に、お見舞いがてらおけいこに通っておりました。ある時「ちょっと琵琶持って来て。」と姉に言われ琵琶を渡すと、薬の副作用のため皮がむけた痛々しい指で「弾出しはこんなふうに、こんな間で。二丁撥はしっかりと入れなさい。」と弾いてくれました。おけいこは穣水先生から受けておりましたので、姉から直に教わったのはこの時が初めてでした。その頃私は『吉野山懐古』をおけいこしていたのですが、茶の間でおしゃべりしていた時、姉が『吉野山懐古』を歌い出し、大きな声は出ないのですが、しっかりとした声で最後まで歌いきりました。「私この歌大好き。お父さんからしっかり習ってね。」と言われました。
それから数か月で姉は亡くなり早や7年半が過ぎましたが、全国大会に参加した折など、皆様が姉のことを忘れずにいて下さること、また慕って下さっていたことを改めて感じております。『絲水』の名の重みに戸惑っておりましたが、今は名を汚さぬよう、穣水先生のご指導のもと、おけいこに昇進してまいりたいと存じます。今後とも、よろしくお願い申し上げます。